2025年2月14日、小田急線生田駅に集合して、徒歩20分ほどの明治大学生田キャンパスの登戸研究所を訪れた。前日の強風と違い、暖かい無風の快晴でした。参加者は9名。 明治大学生田口のエスカレーターで小高いキャンパスに上りました。予定より少し早めに到着。最初にビデオで概要説明があり、続いて研究所員による2時間を超える丁寧な説明を受けました。(写真1)
現在の明治大学生田キャンパスは、かつての登戸研究所の敷地に立地しています。 ここは旧日本陸軍が秘密戦のために兵器・資材を研究するために設置した負の遺産で、最初は電波兵器を開発するための施設でしたが、1939年に大幅に機能拡張され、名称も「陸軍科学研究所登戸出張所」となり、新たに毒物、薬物、生物兵器、スパイ用品、偽札・偽造パスポート製造を行う部署も設置されました。1944年の最盛期には、敷地11万坪、建物100棟余、技術将校・技師・僞手などの幹部職員250名、一般の雇員・工員等を合わせると総勢1000名に達する大規模な研究所になりました。 しかし、戦局の悪化に伴い、1945年には登戸研究所の主たる機能は長野県伊那地方に分散・疎開し、そこで敗戦を迎えました。
生田にあった登戸研究所の敷地約半分を戦後、1950年に明治大学が建物ごと取得し、生田キャンパスが開設されました。
第一にこの資料館は旧陸軍の研究施設をそのまま保存・活用した全国でも随一の事例です。 そのため、可能な限り建物の作り付けの設備はそのまま残し、部屋割り・内装・照明も戦時中に近いものに復元されました。
第二に歴史にはほとんど記録されていない秘密戦に焦点をあてた、日本では随一の資料館です。また、登戸研究所の概要を、実証的かつ視覚的に展示した随一の常設資料館です。 更に、登戸研究所の史実発掘過程をも対象としています。
このキャンパスには、同大学農学部出身の登山家・冒険家植村直己さんの記念碑もありました。
登戸研究所見学後は、生田駅に戻り電車で登戸に移動しました。海鮮料理店「元海」は登戸駅から徒歩6分ほどで、歓談をして7時半ころに解散しました。
風船爆弾の1/10レプリカ |
名前だけを知っていた「風船爆弾」という兵器について10分の1のレプリカが展示してあり実像を知ることが出来ました。「風船」というのどかな名称と違って、当時の大日本帝国が本気で開発運用した戦略兵器でした。
直径10mの水素気球兵器で総重量205kg、搭載爆弾量:15 kg ×1 と 5 kg ×4、日本から放球後高度10000mを70時間浮遊してジェット気流に乗ってアメリカ本土の空襲を企画した。 和紙とこんにゃく糊が材料で全国各地の女学生によって製造された。1944年11月から1945年3月までの間千葉県一ノ宮と茨城県大津、福島県勿来の各海岸からアメリカ本土に向けて約9,300発が放球された。内1割弱がアメリカ本土やアラスカ、カナダに到達したとのことです。
ほとんどは小規模な山火事を起こした程度で、米国西海岸のオレゴン州の山中に着陸した風船爆弾の爆発により民間人6名の死者を出したことが知られています。
しかし、搭載兵器を当初は登戸研究所の研究開発テーマの一つであった生物兵器を計画していたものだが敗戦色濃厚となった中、戦後の戦犯追及の恐れから焼夷弾に変更したとのことです。生物兵器が効力を発揮していたらどんなことになっていたか。 戦争の悍ましさと滑稽さをあらためて感じた次第です。
風船爆弾と登戸研究所に関するweb記事と動画(クリックすると該当ページに移動します)
女学生が作った秘密兵器“風船爆弾” 日米開戦から80年「世界初の大陸間横断兵器」の真実とは? CBCドキュメンタリー(動画):
https://www.youtube.com/watch?v=OFstmkOLX7E
TBS NEWS DIG「風船爆弾」製造に動員された女学生の証言(動画)
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/664303?display=1&mwplay=1
https://www.youtube.com/watch?v=xeiI3MSL-Fo
「女学生と風船爆弾-後篇」第149回多摩探検隊(動画):
https://www.youtube.com/watch?v=dFhMMJ_CiCw
明治大学登戸研究所資料館HP:https://www.meiji.ac.jp/noborito/index.html
明治大学平和教育登戸研究所資料館 動画集
内容:極秘機関陸軍登戸研究所の実態、講演会 「帝銀事件と陸軍登戸研究所」 風船爆弾など
https://www.youtube.com/playlist?list=PL8bCC-xrDXMRO0CSmqZ1n8VY2hoxa3GWd